2012年2月2日木曜日

過去からの警告 ~古文書と考古学が語る巨大津波~ その5

これで最後です。

〓検証!古文書から学ぶ 富士山噴火の"Xデー"
地震と富士山の関係は9世紀の古文書にも記されている
『駿河の国 富士の大山が大噴火した
その勢いは甚だ激しく 一、二里四方の山を焼き尽くした
大地震が三回あり 噴煙はひどく熱せられ
人が近づくことなどできなかった』

貞観大噴火(864年) 貞観地震の5年前に富士山の噴火が起きていた
溶岩について古文書は
『土や石くれが流れ 本栖湖とせの湖を埋めた
湖水は熱湯になり 魚や亀の類は全滅した』

宝永4年10月 巨大地震発生(M8.7)
その後、富士山中で一日10~20回ほどの小規模地震
そして宝永4年12月15日、徐々に体に感じる地震の回数が増え(有感地震)
夜には規模が拡大、その翌日大噴火が起きた。
火山灰は麓の村を消滅させ、さらにジェット気流によって江戸にも降り積もった。
日照不足による飢饉も発生、多くの人が餓死したという。


これまで国の防災対策では、発生頻度が数百年に一回と低くて
実態がよく分からない大昔の巨大津波は、想定から除外してきた。
しかし昨年6月、中央防災管理は中間報告をまとめ
貞観地震などを考慮の外においてきたことは十分反省する必要がある
今後はあらゆる可能性を考慮した最大クラスの巨大地震・津波を想定すべきである』
さらに古文書や沿岸の堆積物調査も必要だと強調した。

最後に、鳥越俊太郎が
「私たちはもはや想定外という言い訳が通用しないことを肝に銘じなければいけません」

て言うてた。
一番肝に銘ずべきは税金泥棒の地震学者、気象庁、政府やろ。
コイツら、ほんまに十分反省してるか?
絶対にしてない!
今までも、何百年に一度とやらの周期で予知してたヤツらは、
古文書のどこ見てたねん?何年前まで遡ってたねん?
周期論で予知すんなら、お金掛からんやろ。

大昔は、テレビもラジオもない。勿論電話もない。
それに比べて、今の時代はあらゆる情報手段がある。
先人の言い伝えもネットで簡単に見ることもできるし
過去の大地震や大津波の映像も見れる。
これほど恵まれている時代やのに、なんでそれが活かされへんの?

阪神淡路大震災のときもリアルタイムで放送を見てた人は多いはず。
生々しく死者数がテレビ画面でカウントされるというこの時代に・・・
今回の東日本大震災に至るまで、幾つかの大地震や大津波を見聞きしてるはず。

参考に↓
津波 ディジタルライブラリィ

それでも歴史は繰り返される。

富士山噴火と山梨県東部地震とは関連性ないて気象庁は発表してたけど
関連してないわけないやろ。
そもそもこの地震の解説が、飽きもせずプレートテクトニクス論やから全然話にならん!
東日本大震災で、十分反省したんやなかったっけ?
反省する必要がある・・・って、けど反省してません!ってことか?(`ェ´)

房総半島とか駿河湾周辺とか、東京湾沿岸の臨海地区でも
磁気異常が発生してることとかも研究してんか?

なんで、関連の可能性はあるって言えんのかな?
パニックになるから?
信憑性がないから?
想定外やから?
また原発人災事故のときみたいに繰り返しか?
想定外の次は、どんな言い訳するつもりかな?

各家庭でコンパスを置いてほしい。
いつ起こるか予知はでけへんけど、地震の前兆によって動くことは確か。
何のリスクもないことやから、是非置いてほしい。

2012年2月1日水曜日

過去からの警告 ~古文書と考古学が語る巨大津波~ その4

〓"原発銀座"でも被害が!? 古文書が語る若狭津波

"原発銀座"と呼ばれる若狭湾
昨年3月18日、関西電力が美浜原発の地元、美浜町議会に配った資料の一部に
「若狭湾周辺の津波の起こる可能性」として
○文献によると過去に若狭湾周辺で津波による大きな被害記録はないと書かれてある。

ところが、吉田兼見の日記、一級史料といわれる「兼見卿記」には
『丹後、若州、越州浦辺波を打ち上げ在家悉く押し流され 人死ぬ事数知らず』
と天正大地震(1586年)のことを記してある。

そしてもう一人、ポルトガル人宣教師 ルイス・フロイス「日本史」には
『若狭の国には海に向かって、やはり長浜と称する別の大きい町があった。
そこには多数の人々が出入りし、盛んに商売が行われていた。
人々の大いなる恐怖と驚愕のうちにその地が数日間揺れ動いた後、
海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が、遠くから恐るべき唸りを発しながら
猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに
破壊してしまった。高潮が引き返す時には、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、
その地は塩水の泡だらけとなって、一切のものが海に呑みこまれてしまった』

岐阜県白川村では戦国武将の城が一瞬にして消えたと伝える古文書がある。
「貝塚御所日記」には
『帰雲という集落は 地震が山をゆりくずし
山河多くせき止められ 大洪水 馳せ入りて
一族身分低い者にいたるまで 残らず死にたるなり』

昨年、滋賀県立大学琵琶湖水中考古学研究会が
長浜市西浜の湖底で、沖合およそ80~110メートルの範囲で石軍を発見した。
かつて地震の地滑りで水没した集落の伝承があり、
天正大地震で沈んだ可能性が高まった。

古文書には、震源から遠く離れた京都での記述に
『十一月二十九日夜 大地震に 京都三十三間堂の仏六百体 いづれも倒れ給ふ』

京都大学理学部 岡田篤正名誉教授
「天正地震というのは、非常に謎の多いというか、
被害の分布についても漠然としていて、曖昧な部分がまだある」

昨年10月、若狭湾に繋がる三方五湖(福井県美浜町)にて、
湖周辺の9ヶ所でおよそ1万年前まで遡って、津波痕跡のボーリング調査が始まった。
その結果、電力会社3社は
「天正地震の年代を含む表層1メートル以浅の地層については
津波によって海から運ばれたと思われる砂の層は認められませんでした」
「天正大地震で津波はなかったか、たとえあったとしても小さいものだった」
と結論づけた。

北海道大学 平川一臣教授は
「ボーリング調査で発見されなくても、津波が全くなかったという証明にはならない」


〓検証!平安時代と酷似"巨大地震の世紀へ!?"

古文書 日本三大実録より
元慶関東地震(878年)
『この日、関東諸国は大いに震動し、相模国・武蔵国が最も甚だしかった
五、六日余震が続き 地面は陥没 街道は不通となり 多数の農民が圧死した』

仁和西日本地震(887年)
『大地が大いに震動し、五畿内七道(全国)の諸国で同じ日 大地震があり
津波が押し寄せ 溺死者は無数 摂津国の被害が最も甚だしかった』


古文書の信憑性については賛否あるかもしれへんけど
先人が何らかの形(日記や石碑とか)で、後世に伝えようとしたことは確か。
今の時代は、パソコンなりあって、いくらでも後世に残せるシステムがある。
その便利なシステムを活用せず、隠蔽するのは許せん行為。
今、生きている人類がいつか全員死んでしもたときに
先人のように、それ以上にちゃんと残していけるんやろか?
大切な真実を隠蔽して、事実を曲げるようなことはやめてほしい。

後世のために遺してくれた大切な記録
先人たちは、きっとあの世で怒ってるやろう・・いや、愚かしさを嗤てるやろか。

過去からの警告 ~古文書と考古学が語る巨大津波~ その3

〓明応地震(1498年)の真実

明応地震では、巨大津波によって、東海道の宿場町が消え、
大仏殿が崩壊したとも言われている。

東京大学 榎原雅治教授(古文書学)
鎌倉時代半ばの旅行記の一つで「東関紀行・海道記」には
『橋本という所に行き着きれば
聞きわたりし かいありて 景色いと心すごし
南には潮海あり 漁舟波に浮かぶ
北には湖水あり 人家岸に連なれり
その間に須崎 遠くさし出で 松きびしく生ひ続き
湖に渡せる橋を浜名と名付く 古き名所なり』

湖の南側に続く砂洲を歩いてきた旅人は、橋を渡り「橋本宿」に泊まって
都へと向かった。
明応東海地震の翌年に旅した人の史料では、「橋本宿」を避けている。
その後の史料でも、もう「橋本宿」は出てこなくなる。
明応7年の地震をきっかけに通れなくなってしまったと推定される。

高徳院に伝わる鎌倉時代の記録では
「波が仏閣僧房をことごとく流してしまった」ということですから
津波のことを意味しているのではないかと住職の話。

しかし、鎌倉市のハザードマップでは、鎌倉大仏は、津波の緊急避難所に
指定されてきた。

早稲田大学 柴山知也教授(沿岸防災)
「鎌倉大日記」に着目した。
明応4年の条に
『八月十五日大地震洪水 鎌倉由比濱海水到千度檀
水勢大佛殿破堂舎屋 溺死人二百餘』

「鎌倉市の津波想定は、関東大震災を元にした5m程度
大仏殿の建物については、明応地震の前に台風で破壊されていたという説も
あるが、大仏の足下に迫るほどの大津波が鎌倉を襲ったことは間違いないのではないか。
神奈川県は昨年12月8日、明応地震も想定に加え防災対策を大幅に見直した」

と番組では言うてたから、ちょっと調べてみたら、
「鎌倉大日記」の明応4年8月15日は、明応7年(1498年)8月25日の誤記ではないか
という説があるみたい。
それと、台風で破壊されてたていうのも鎌倉大仏殿跡 文化遺産オンライン
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=163068
に書かれてた。
津波で大仏殿が破壊されたかどうかの事実も大事な記録の一つには違いないけど
それこそ、想定外の自然災害に危機感は持つべきやね。


岩手県宮古市の丘の上に建てられてた「大津浪記念碑」には、
『高き住居(すまい)は児孫(こまご)の和楽(わらく)、想へ惨禍の大津浪
此処より下に 家を建てるな
明治二十九年にも 昭和八年にも津波は此処まで来て部落は全滅し
生存者僅かに 前に二人 後ろに四人のみ 幾歳 経るとも要心あれ』


こういう石碑が、青森県から宮城県に至る三陸海岸各地に約200基が建てられてるけど
便利・不便さだけで、大災害のあった土地に暮らすということは
また同じ繰り返しをするということになるんやよな。
それが100年に一度か、1000年に一度かは分からんにしても
先人の言葉を・・・”警告”をどう受け止めるかは、個々の自由とは言えんレベルと思う。

過去からの警告 ~古文書と考古学が語る巨大津波~ その2

〓検証!過去からの警告 道頓堀川を遡る大津波


安政大津波(1854年)を伝える江戸時代のかわら版には
『十一月五日七つ時、大地震となり候ところ
暮れ方より 二丈余の大津波うちきたり
道頓堀川大黒橋まで千五百余艘の大舟 押しのぼり 船の上へ船
二重三重に重なり、亀の甲羅を干すが如く』



「大坂大津浪図」もあり、
度重なる地震の揺れを怖れて、人々が逃げ込んだ船を海から遡ってきた津波が襲い
道頓堀川などでたくさんの人が亡くなったと伝えている。
およそ2000人の犠牲者を出した安政大津波の被害を伝える石碑が
大阪市浪速区に立っている。
実はこの150年前の宝永地震の際も大きな津波被害が出ました。
しかし、被災の記憶が風化して教訓を活かされなかったことを
『年月が経てば伝え聞く人稀なるゆえ、
今また同じところでおびただしい人が亡くなった』
また『願ハくハ心あらん人年々文字よミ安きやう墨を入給ふ可し』
と戒めている。

〓750年前に"大阪沈没"長周期振動と液状化も・・・

「斑鳩嘉元記」という古文書には、正平南海地震(1361年)の被害の様子が
記されていた。
『四天王寺金堂が壊れ、倒れた。また安居殿御所西浦まで潮が満ちて
その間の家の人々がたくさん亡くなった』ということだ

安居殿御所西浦は、現在の安居神社

南北朝時代の「太平記」には
『摂津の国難波浦の澳数百町、半時許乾あがりて、無量の魚共沙の上に吻ける程に、
傍の浦の海人共、網を巻釣を捨て、我劣じと拾ける処に、
又俄に大山の如くなる潮満来て、漫々たる海に成にければ、数百人の海人共、
独も生きて帰は無かりけり』と記されている。

引き波が半時(1時間)もの長い時間だったと書いてある。
大阪のほぼ全域が水没していた。
東京大学地震研究所 都司嘉宣 準教授は
「大阪の環状線の海側の半分は津波の大きな被害を受けると思う」

東海地震、東南海地震、南海地震の震源域では、
白鳳地震(684年)、仁和地震(887年)、永長地震(1096年)、康和地震(1099年)
正平地震(1361年)、明応地震(1498年)、慶長地震(1605年)、宝永地震(1707年)
安政地震(1854年)、昭和地震(1944年、1946年)
と大地震を繰り返してきた。
古文書では、大化の改新の頃の白鳳地震まで遡れない。



宮城県気仙沼市の大家海岸
北海道大学 平川一臣教授は震災後、津波堆積物の調査で見つけた。
慶長三陸津波(1611年)、貞観津波(869年)、2200年前の津波、2500年前の津波
3500年前の津波、5400年前の津波の痕跡だと断定した。

岩手県宮古市では、海岸から260m離れた標高17m地点で
昭和三陸津波、明治三陸津波、寛政三陸津波(1739年)、慶長三陸津波(1611年)、
11~12世紀の大津波、貞観津波(869年)の津波堆積物が見つかった。
また、今回の津波の最高到達地点、標高32mの地点でも複数の津波地層が発見された。

過去からの警告 ~古文書と考古学が語る巨大津波~

2012/01/15(日)テレ朝「ザ・スクープ」でやってたのを書いとく。


〓東日本大震災と酷似 古文書が語る"貞観津波"

宮城県名取市、閖上地区
およそ1000年前にもこの地を大津波が襲った古文書が残っていた。

『人々は叫び声を上げで、地面に這い蹲り立っていることができなかった。
数十百里の内陸まで一面海になり、原野も道路も境目が分からなくなった。
船に乗る暇も山に登る暇もなく、溺死する者千人ばかり』

平安時代の国家の記録、「日本三大実録」が記した西暦869年の貞観地震
1000人という死者の数をどう捉えるかは議論が分かれるが
仮にこれを今の人口比に当てはめると死者はおよそ2万人で
今回の震災に匹敵する大災害になる。
ところが、この地域の防災対策の基準は、34年前の「宮城県沖地震」
M7.4しかない。閖上は沿岸部の僅かなエリアしか浸水しないと考えられていた。
行政が古文書に書かれた巨大津波を想定していなかったのは何故か?

東大地震研究所、古村孝志
「勿論1000年前の貞観地震、もっと大きい地震が起きたらしいということは
分かってましたが、分かってたといっても、
それは古文書の中に、ちょっと記載がある限定的なデータでしかなかったので
信憑性がよく分からない地震だと、ついつい追いやる、あるいは無意識に
無視してしまう。そういうふうに自然になってしまったんだと思いますね」

産業技術総合研究所 宍倉正展博士
「石巻で採取した地層には、西暦915年に十和田火山から噴出した火山灰層、
直ぐ下に869年の貞観地震の津波で運ばれた地層ではないかと分かる」
貞観津波の波源は、今回の津波とほぼ同じ
南相馬や浪江町でも貞観地震の津波の痕跡が見つかっていて、
そこ(原発)まで、浸水し得るということが既に分かっていた

しかし
東京電力は、福島第一原発を襲う津波は、塩屋埼沖地震(1938年)が
最大級として、被害想定を最大5.7mと過小評価していた(実際の津波は14m以上)

産業技術総合研究所 岡村行信博士は
2009年6月、経産省の審議会で調査結果を報告し、
貞観地震では、塩屋埼沖地震と全く比べものにならない
非常にでかい津波が来ている』(議事録より)と警告している。

これに対し、
東電担当者は「貞観地震の被害はそれほど見当たらない」
岡村博士は「日本三大実録には多賀城が壊れたという記述があります」
しかし
古文書の記述やボーリング調査による科学的裏付けがあるにも拘わらず
東電は津波の想定を見直すことはなかった

東北学院大学 松本秀明教授は、震災後に海岸線から約2.5kmの地点を調査。
2000年前の弥生時代にも巨大津波が襲っていた地層の痕跡を発見。
その分析結果によると、今回の津波、貞観の津波、2000年前の津波を
当時の海岸線からの距離を比べると、ほぼ同じ規模で内陸に達していたことが分かった


とりあえず、ここまでが、東日本大震災で見えてきた真実。

古村!またお前かっ!無意識に無視?( ゚Д゚)ハァ?
そんなとぼけたことをさらっと言うかっ?
血税使てるくせに、責任とれよ!
しょーもない確率論でしか予知でけへんくせに!
てか、それは予知とは言わん。ド素人でもできる。
1000年に一度?想定外?そんな言い訳だけで、何のお咎めもされずに
今もなお、国民の税金をドブに捨ててるヤツら!
ちゃんと調査して、研究もしてるところには、研究費を払わず
誰にでもできる確率論で予知とか寝ボケたこと言うてるヤツらに税金が使われる
この腐った日本のシステムを誰も疑問に思わんのか?
理論として成り立たんプレートテクニクス説で未だに堂々と、さも事実のように語ってるヤツらに
予知なんかできるはずもない。
その研究に自信があるんなら自腹で一生しとけ!
何が東海地震だけは予知できます!やねんっ(`ェ´)

政府は勿論、税金使て研究してたヤツらと東電の担当者には、責任取らせるべき。
ボランティアで研究してんならしゃーないけど、何百億も税金使てるくせに!
古村みたいに、まるで他人事のようにぬかすヤツらに
税金を使われたないわ!返せ!
コイツらに払う税金で防災費にも救済費にもできるやろ。
被害者である国民が、税金だけ払わされて、守られてるのはいつも加害者。
その加害者は、誰に咎められることもなく、ぬくぬくと贅沢な暮らしを続け
邪魔にしかならん予知三昧。
復興という言葉のトリックで、さらに被害者から金を巻き上げるてことが許されてええのか?
もうこれ以上、無駄に税金使うのやめてほしい!
アテにならん予知をしてほしい人だけ税金払たらええんちゃう?
うちは、コイツらの情報なんかいらん!

この続きは次回へ