2012年2月1日水曜日

過去からの警告 ~古文書と考古学が語る巨大津波~ その2

〓検証!過去からの警告 道頓堀川を遡る大津波


安政大津波(1854年)を伝える江戸時代のかわら版には
『十一月五日七つ時、大地震となり候ところ
暮れ方より 二丈余の大津波うちきたり
道頓堀川大黒橋まで千五百余艘の大舟 押しのぼり 船の上へ船
二重三重に重なり、亀の甲羅を干すが如く』



「大坂大津浪図」もあり、
度重なる地震の揺れを怖れて、人々が逃げ込んだ船を海から遡ってきた津波が襲い
道頓堀川などでたくさんの人が亡くなったと伝えている。
およそ2000人の犠牲者を出した安政大津波の被害を伝える石碑が
大阪市浪速区に立っている。
実はこの150年前の宝永地震の際も大きな津波被害が出ました。
しかし、被災の記憶が風化して教訓を活かされなかったことを
『年月が経てば伝え聞く人稀なるゆえ、
今また同じところでおびただしい人が亡くなった』
また『願ハくハ心あらん人年々文字よミ安きやう墨を入給ふ可し』
と戒めている。

〓750年前に"大阪沈没"長周期振動と液状化も・・・

「斑鳩嘉元記」という古文書には、正平南海地震(1361年)の被害の様子が
記されていた。
『四天王寺金堂が壊れ、倒れた。また安居殿御所西浦まで潮が満ちて
その間の家の人々がたくさん亡くなった』ということだ

安居殿御所西浦は、現在の安居神社

南北朝時代の「太平記」には
『摂津の国難波浦の澳数百町、半時許乾あがりて、無量の魚共沙の上に吻ける程に、
傍の浦の海人共、網を巻釣を捨て、我劣じと拾ける処に、
又俄に大山の如くなる潮満来て、漫々たる海に成にければ、数百人の海人共、
独も生きて帰は無かりけり』と記されている。

引き波が半時(1時間)もの長い時間だったと書いてある。
大阪のほぼ全域が水没していた。
東京大学地震研究所 都司嘉宣 準教授は
「大阪の環状線の海側の半分は津波の大きな被害を受けると思う」

東海地震、東南海地震、南海地震の震源域では、
白鳳地震(684年)、仁和地震(887年)、永長地震(1096年)、康和地震(1099年)
正平地震(1361年)、明応地震(1498年)、慶長地震(1605年)、宝永地震(1707年)
安政地震(1854年)、昭和地震(1944年、1946年)
と大地震を繰り返してきた。
古文書では、大化の改新の頃の白鳳地震まで遡れない。



宮城県気仙沼市の大家海岸
北海道大学 平川一臣教授は震災後、津波堆積物の調査で見つけた。
慶長三陸津波(1611年)、貞観津波(869年)、2200年前の津波、2500年前の津波
3500年前の津波、5400年前の津波の痕跡だと断定した。

岩手県宮古市では、海岸から260m離れた標高17m地点で
昭和三陸津波、明治三陸津波、寛政三陸津波(1739年)、慶長三陸津波(1611年)、
11~12世紀の大津波、貞観津波(869年)の津波堆積物が見つかった。
また、今回の津波の最高到達地点、標高32mの地点でも複数の津波地層が発見された。

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