2012年2月1日水曜日

過去からの警告 ~古文書と考古学が語る巨大津波~ その3

〓明応地震(1498年)の真実

明応地震では、巨大津波によって、東海道の宿場町が消え、
大仏殿が崩壊したとも言われている。

東京大学 榎原雅治教授(古文書学)
鎌倉時代半ばの旅行記の一つで「東関紀行・海道記」には
『橋本という所に行き着きれば
聞きわたりし かいありて 景色いと心すごし
南には潮海あり 漁舟波に浮かぶ
北には湖水あり 人家岸に連なれり
その間に須崎 遠くさし出で 松きびしく生ひ続き
湖に渡せる橋を浜名と名付く 古き名所なり』

湖の南側に続く砂洲を歩いてきた旅人は、橋を渡り「橋本宿」に泊まって
都へと向かった。
明応東海地震の翌年に旅した人の史料では、「橋本宿」を避けている。
その後の史料でも、もう「橋本宿」は出てこなくなる。
明応7年の地震をきっかけに通れなくなってしまったと推定される。

高徳院に伝わる鎌倉時代の記録では
「波が仏閣僧房をことごとく流してしまった」ということですから
津波のことを意味しているのではないかと住職の話。

しかし、鎌倉市のハザードマップでは、鎌倉大仏は、津波の緊急避難所に
指定されてきた。

早稲田大学 柴山知也教授(沿岸防災)
「鎌倉大日記」に着目した。
明応4年の条に
『八月十五日大地震洪水 鎌倉由比濱海水到千度檀
水勢大佛殿破堂舎屋 溺死人二百餘』

「鎌倉市の津波想定は、関東大震災を元にした5m程度
大仏殿の建物については、明応地震の前に台風で破壊されていたという説も
あるが、大仏の足下に迫るほどの大津波が鎌倉を襲ったことは間違いないのではないか。
神奈川県は昨年12月8日、明応地震も想定に加え防災対策を大幅に見直した」

と番組では言うてたから、ちょっと調べてみたら、
「鎌倉大日記」の明応4年8月15日は、明応7年(1498年)8月25日の誤記ではないか
という説があるみたい。
それと、台風で破壊されてたていうのも鎌倉大仏殿跡 文化遺産オンライン
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=163068
に書かれてた。
津波で大仏殿が破壊されたかどうかの事実も大事な記録の一つには違いないけど
それこそ、想定外の自然災害に危機感は持つべきやね。


岩手県宮古市の丘の上に建てられてた「大津浪記念碑」には、
『高き住居(すまい)は児孫(こまご)の和楽(わらく)、想へ惨禍の大津浪
此処より下に 家を建てるな
明治二十九年にも 昭和八年にも津波は此処まで来て部落は全滅し
生存者僅かに 前に二人 後ろに四人のみ 幾歳 経るとも要心あれ』


こういう石碑が、青森県から宮城県に至る三陸海岸各地に約200基が建てられてるけど
便利・不便さだけで、大災害のあった土地に暮らすということは
また同じ繰り返しをするということになるんやよな。
それが100年に一度か、1000年に一度かは分からんにしても
先人の言葉を・・・”警告”をどう受け止めるかは、個々の自由とは言えんレベルと思う。

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