2012年2月1日水曜日

過去からの警告 ~古文書と考古学が語る巨大津波~ その4

〓"原発銀座"でも被害が!? 古文書が語る若狭津波

"原発銀座"と呼ばれる若狭湾
昨年3月18日、関西電力が美浜原発の地元、美浜町議会に配った資料の一部に
「若狭湾周辺の津波の起こる可能性」として
○文献によると過去に若狭湾周辺で津波による大きな被害記録はないと書かれてある。

ところが、吉田兼見の日記、一級史料といわれる「兼見卿記」には
『丹後、若州、越州浦辺波を打ち上げ在家悉く押し流され 人死ぬ事数知らず』
と天正大地震(1586年)のことを記してある。

そしてもう一人、ポルトガル人宣教師 ルイス・フロイス「日本史」には
『若狭の国には海に向かって、やはり長浜と称する別の大きい町があった。
そこには多数の人々が出入りし、盛んに商売が行われていた。
人々の大いなる恐怖と驚愕のうちにその地が数日間揺れ動いた後、
海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が、遠くから恐るべき唸りを発しながら
猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに
破壊してしまった。高潮が引き返す時には、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、
その地は塩水の泡だらけとなって、一切のものが海に呑みこまれてしまった』

岐阜県白川村では戦国武将の城が一瞬にして消えたと伝える古文書がある。
「貝塚御所日記」には
『帰雲という集落は 地震が山をゆりくずし
山河多くせき止められ 大洪水 馳せ入りて
一族身分低い者にいたるまで 残らず死にたるなり』

昨年、滋賀県立大学琵琶湖水中考古学研究会が
長浜市西浜の湖底で、沖合およそ80~110メートルの範囲で石軍を発見した。
かつて地震の地滑りで水没した集落の伝承があり、
天正大地震で沈んだ可能性が高まった。

古文書には、震源から遠く離れた京都での記述に
『十一月二十九日夜 大地震に 京都三十三間堂の仏六百体 いづれも倒れ給ふ』

京都大学理学部 岡田篤正名誉教授
「天正地震というのは、非常に謎の多いというか、
被害の分布についても漠然としていて、曖昧な部分がまだある」

昨年10月、若狭湾に繋がる三方五湖(福井県美浜町)にて、
湖周辺の9ヶ所でおよそ1万年前まで遡って、津波痕跡のボーリング調査が始まった。
その結果、電力会社3社は
「天正地震の年代を含む表層1メートル以浅の地層については
津波によって海から運ばれたと思われる砂の層は認められませんでした」
「天正大地震で津波はなかったか、たとえあったとしても小さいものだった」
と結論づけた。

北海道大学 平川一臣教授は
「ボーリング調査で発見されなくても、津波が全くなかったという証明にはならない」


〓検証!平安時代と酷似"巨大地震の世紀へ!?"

古文書 日本三大実録より
元慶関東地震(878年)
『この日、関東諸国は大いに震動し、相模国・武蔵国が最も甚だしかった
五、六日余震が続き 地面は陥没 街道は不通となり 多数の農民が圧死した』

仁和西日本地震(887年)
『大地が大いに震動し、五畿内七道(全国)の諸国で同じ日 大地震があり
津波が押し寄せ 溺死者は無数 摂津国の被害が最も甚だしかった』


古文書の信憑性については賛否あるかもしれへんけど
先人が何らかの形(日記や石碑とか)で、後世に伝えようとしたことは確か。
今の時代は、パソコンなりあって、いくらでも後世に残せるシステムがある。
その便利なシステムを活用せず、隠蔽するのは許せん行為。
今、生きている人類がいつか全員死んでしもたときに
先人のように、それ以上にちゃんと残していけるんやろか?
大切な真実を隠蔽して、事実を曲げるようなことはやめてほしい。

後世のために遺してくれた大切な記録
先人たちは、きっとあの世で怒ってるやろう・・いや、愚かしさを嗤てるやろか。

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